1871年、日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)を結び、清(しん)と国交を開く。
日清修好条規とは?
1871年に、天津(てんしん)で日本と清(しん)が外国と結んだ、初めての対等な条約(じょうやく)。
日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は、1871年に天津(てんしん)で、日本と清(しん)が外国と結んだ、初めての対等な条約(じょうやく)のことだ。
日本も清も、それまでは欧米諸国(おうべいしょこく)との間に不平等(ふびょうどう)な条約(じょうやく)を結ばされており、両国ともこの条約を足がかりに、不平等条約(ふびょうどうじょうやく)の改正(かいせい)を目指すこととなった。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
また、日本は清(しん)と条約(じょうやく)を結ぶことで、それまでずっと国交を拒(こば)み続けていた朝鮮に対して圧力を加えようと考え、逆に、清(しん)は条約(じょうやく)によって朝鮮に対する日本の支配を抑え込もうとしていた。
「日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)」の主な内容は、相互の開港(かいこう)や領事裁判権(りょうじさいばんけん)を認め合うこと、関税(かんぜい)の優遇(ゆうぐう)などである。
その中でも、重要なのが相互の領土(りょうど)に関する取り決めである。
この条約(じょうやく)で、お互いの領土(りょうど)は、少しの侵越(しんえつ)も認めず永久に安全とした。
しかしながら、まったく対等な条約(じょうやく)といっても、東アジアの中で主導権(しゅどうけん)を握りたい両国の思惑(おもわく)もあり、1871年に調印(ちょういん)されたこの「日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)」が実際に批准(正式な条約(じょうやく)を結ぶ)されたのは1873年と、2年の歳月(さいげつ)を要した。
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